モンゴメリの文学ツアー

インスピレーションに満ちたL.M.モンゴメリの文学ツアー 

“The Inspiring World of L. M. Montgomery A Literary Tour”

L. M. モンゴメリ文学ツアーは、『赤毛のアン』の著者、L. M. モンゴメリとその作品に関わる場所を紹介し、世界中の人々にさらなる理解と興味を深めてもらう目的で企画された名所案内です。モンゴメリ研究における権威者を始め、地元の熱心な観光業界の経営者たちからなるグループのアイデアと努力によって2019年にスタートしました。

この島にはL. M. モンゴメリや彼女の作品にかかわる場所が数多くありますが、その中でもとりわけ興味深く、逃すことのできないスポットをより正確な情報と共に紹介するため、各場所には「文学ツアー」のパネルが立てられています。本を広げた形のユニークで思わず目を引くデザインのパネルには、英語、フランス語、日本語でのそれぞれの説明文が、貴重な写真や引用文と共に掲載されています。

“The Inspiring World of L. M. Montgomery  A Literary Tour” はウェブサイトがあり、内容はほぼパネルと同じですが、英語のみです。

日本の熱心なファンのためにも、是非このプロブラムのことを知っていただきたく、また実際にプリンスエドワード島への渡航が叶わなくとも、サイト上で、この情報をお伝えできればと願い、有志で日本語版を立ち上げることにしました。

ベースにしたのが2019~2020年にかけて新しく立ったパネルですが、いくつか改訂の必要が生じたため、新たに日本語訳を書き直し、この「文学ツアー」発足グループの認定を得て当サイトへの掲載が実現しました。できるだけパネルのデザインを崩さぬように、オリジナルに沿って製作し、パネルとサイトの双方を兼ねた日本語バージョンとしています。

L.M.モンゴメリの文学の世界をどうぞお楽しみ下さい。

​有志:テリー神川 、増田かつ江

​※​当地でお配りしている日本語パンフレットはこちらでダウンロード下さい。

各スポットには本を広げたこのデザインのパネルが立っています。

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ルーシー・モード・モンゴメリ(1874年11月30日~1942年4月24日)は、L. M. モンゴメリのペンネームで1908年に最初に刊行した(のちにシリーズ小説となった)『赤毛のアン』で最もよく知られる、OBE(大英帝国四等勲爵士)を受賞したカナダ人作家です。

 

「私が子供時代の環境や出来事について、これまで詳しく記述してきたのは、自分の文学的才能の発達が、それらに大きく影響されているからです。環境が違っていれば、異なる道に進んだかもしれません。キャベンディッシュでの日々がなかったら、『赤毛のアン』という作品が生まれることもなかったでしょう。」(『The Alpine Path』モンゴメリ自叙伝、第6章より)

小説 ”Anne of Green Gables(『赤毛のアン』)” 1908年刊行当時のL. M. モンゴメリ

A Glimpse of Beauty

一瞬のきらめき 

ブロンズ像

コンセプト・デザイン担当 グレイス・カーティス

彫刻・鋳造担当  ネイサン・スコット 

デザイナーからのコメント

「キャベンディッシュで暮らし、『赤毛のアン』を執筆しようと奮闘していた20代後半の頃のモンゴメリを表現したいと思いました。”A Glimpse of Beauty ( 一瞬のきらめき)”は瞬時のインスピレーションにモンゴメリが畏敬の念を抱いている姿をとらえています。彼女は、この創造的な瞬間のことを「the flash(ひらめき)」という言葉で語っています。自然の美しさに触発され、天を見上げて深く息を吸い込み、全てを吸収する。それは喜びの瞬間であり、彼女の中に潜んでいた創造力が目覚める瞬間でもありました。私も少女の頃、モンゴメリのいくつかの作品の随所で描かれている、垣間見た美しさを描き出す筆致力に心打たれたことを覚えています。後に、これはモンゴメリ自身が体験したことだと知りました。この素晴らしくミステリアスな瞬間は、いまだにアーティストとしての私の心を魅了してやみません。」グレイス・カーティス

彫刻家からのコメント

「今回の制作は私にとって、非常に貴重な体験でした。グレイスから送られてきたコンセプト・デザインを体現化させるには、プロジェクト依頼者グループとアーティストが思い描くイメージのすべてをとらえなければならなかったからです。私は、L.M.モンゴメリが、この小さな島がいかに特別な場所であり、秘密の宝石のような存在であるかを世界中に知らせることに大きな役割を果たしたと考えます。彼女は、『赤毛のアン』や『可愛いエミリー』といった作品の登場人物を通して、想像の世界を豊かに表現しています。モンゴメリの作品を称える事業の一部に参加させていただいたことを光栄に思うとともに、再びこの島に帰る機会をいただけたことに感謝します。」ネイサン・スコット

The Macneill Homestead 

マクニール農場(住居跡) 

インスピレーション

L.M.モンゴメリのキャベンディッシュの家は、間違いなく他のどこよりも彼女に執筆へのインスピレーションと意欲を与えた場所だと言えるでしょう。幼くして母親(クレアラ・マクニール)を亡くし、次いで父親(ヒュー・ジョン・モンゴメリ)のカナダ西部への出立という事情から、モンゴメリは人生の大半を母方の祖父母(アレクサンダーとルーシー)であるマクニールの家で過ごしています。母が亡くなった生後21カ月から、祖母が他界する1911年までの長い年月でした。

マクニール家の台所は村の郵便局の役割も果たしていたので、モンゴメリは郵便業務を手伝いながら執筆に励み、採用に望みをかけた原稿を誰にも知られず出版社に送ることができました。その何百もの短編や詩の中にかの代表作”Anne of Green Gables"(『赤毛のアン』)も含まれていたのです。

この家屋の母屋部分はすでに存在していませんが、残されていた台所の棟は保存され、この元の地所に戻り、現在は一般公開されています。

「今日は、私の愛しい部屋の掃除をした。

今夜は清らかで平穏な古巣で眠りにつくことだろう。ああ、ここを離れることなどできるだろうか。地球上のどこにも私にとってここのような場所はない。喜びや悲哀の折々に、私はこの窓辺に座り、はるか緑の丘を見つめつつ歓喜や悲痛に浸ったのだった。」

( 1910年4月27日、『L.M.モンゴメリの日記』より)

アレクサンダー・マクニールと

ルーシー・マクニールの当時の住居。

モンゴメリが暮らした二階の切妻の窓が見える。

1890年頃、キャベンディッシュ、PEI

祖父母であるマクニール夫妻の家の二階にあった

L.M.モンゴメリの寝室の一角。

1890年頃、キャベンディッシュ、PEI

Path to L.M.Montgomery’s Cavendish Home  

L. M.モンゴメリのキャベンディッシュの家に続く小道  

ホーム

母親が結核にかかった後、L. M. モンゴメリはキャベンディッシュの母方の祖父母(アレクサンダーとルーシー)マクニールの家で暮らすことになりました。いうまでもなく、モンゴメリはこの地所を隅から隅まで散策し、探検しました。当時農場はこのパークの土地とその南側の小道まで続いていて、モンゴメリはその小道を歩いてワンルームスクール(当時あった、教室が一つの学校)に通い、村人たちはマクニール家の台所にある郵便局へ行く道として利用していました。

このあたり一帯のすべてが彼女の心に強く忘れがたい印象を与え、モンゴメリはここで多数の作品を生み出しました。世界中から称賛を受け続ける『赤毛のアン』もここで書かれた数々の物語や詩の中のひとつでした。モンゴメリは1911年に祖母が他界するまでこの家に住み続け、その後、牧師のユーアン・マクドナルドと結婚しました。結婚後はオンタリオに移り住み、再びPEIで暮らすことはありませんでしたが、幾度も島を訪れていました。モンゴメリの作品の20冊中、19冊はこの島を舞台にしています。

「私はキャベンディッシュを後にし、これからは時折の訪問者になる以外、永遠にここから去ることになる。

それによって、私が地球上で偽りなく愛するたったひとつの場所を置き去りにしたような気がする。世界のどこかに私のための家があるのかもしれないけれど、海岸のそばの小さな村にあるあの家だけが私のホームなのだと、心の奥底の魂がそう言っている。」

( 1912年1月28日、『L.M.モンゴメリの日記』より)

アレクサンダー・マクニールと

ルーシー・マクニールの当時の住居。

モンゴメリが暮らした二階の切妻の窓が見える。

1890年頃、キャベンディッシュ、PEI

友人たちからモードと呼ばれていたL.M.モンゴメリ(6歳)と母方の祖母ルーシー・マクニール(1870年頃)

The Cavendish United Church

キャベンディッシュ合同教会   

コミュニティ

L. M. モンゴメリは子供の頃、母方の祖父母と共にもとのキャベンディッシュ長老派教会に礼拝に通っていました。最初の長老派教会は現在墓地になっている場所に建っていたのですが、 その後1901年9月8日、今の場所に新しく建った教会が長老派教会の信徒たちによって正式にオープンしました。 1925年に多くの長老派教会やメソジスト教会、会衆派教会が合併されてカナダ合同教会が結成されると、この歴史ある教会もキャベンディッシュ合同教会となりました。モンゴメリは1903年から1911年までこの教会のオルガン奏者を務め、彼女の葬儀もここで執り行われました。

キャベンディッシュ合同教会の窓を美しく

彩るステンドグラスは、Cavendish Area Resort Associationから寄贈されたもので、L.M.モンゴメリの誕生月と年が記されている。

新しい長老派教会の外観。

1901年頃、キャベンディッシュ、PEI

(現在のキャベンディッシュ合同教会)

「おそらく日曜日は、人々が ‘’説教を聞いている” ころ雨になるだろう。

私の想いはかつての長老派教会に戻っている。「説教中に雨が降った」という古い日記の一節を読んだせいで、私の回想の中では、四半世紀も前に亡くなり、埋葬されたはずの人々も誰一人欠けることなく、慣れ親しんだ教会のベンチを埋め尽くしているのだ。一番前の中央席にいる、大昔のヘブライ預言者の生き残りのような老スコットランド人から、後方席の、私と同世代の礼儀をわきまえない若者たちまで、皆揃っている。牧師の説教が続く・・・現代風の15分ばかりの教えではなく、長々と1時間ほども続く徹底的なお説教である。聖歌隊は中二階の席におり、雨は川の流れのように縦長の白いガラス窓に降りつけている。」

(”The Maritime Advocate and Busy East”誌の1936年5・6月号に掲載されたL. M. モンゴメリの ”Come Back with Me to Prince Edward Island”より)

The Cavendish Cemetery

キャベンディッシュ共同墓地  

永眠

1942年4月24日にトロントで生涯を閉じたL.M.モンゴメリは、PEIに運ばれこの場所に埋葬されています。葬儀は墓碑を背にして正面に見える尖塔のあるキャベンディッシュ合同教会にて執り行われました。

彼女はこの場所を自分の永眠の地に選んだのです。この墓地には毎年、世界中から多くの人々が訪れています。

PEIのキャベンディッシュにあるL.M.モンゴメリの墓碑(墓地内の北東の角、

交差点近く)。写真は1942年頃。

1942年4月24日、トロントで亡くなった後、4月29日にこの場所に埋葬された。

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『赤毛のアン』を出版した頃の

L.M.モンゴメリ。34歳、1908年。

「この夕刻、私は墓地に出かけ亡き人々との約束の再会を果たした。

懐かしい場所は、雪のように真っ白なクローバーで埋まり、日没の光を受けて美しかった。そこで私は、将来自分が永眠する場所を選んできたのだ。ともすれば陰気くさく聞こえるが、私にとっては決して暗鬱な行動ではなかった。私はその時が来たら、キャベンディッシュの墓地に埋葬してもらいたい。地球上のどんな所よりも愛しいこの場所で、親しい人々に囲まれて眠りたい。。。私は丘の上にある一つの区画を選んだ。いつも大好きだった美しい風景ーー池や海岸、砂丘や港を見下ろせる場所。数え切れないほどの夏の夕暮れ、私はそこに佇んで景色を眺めては、自分の想いを言い表わしてくれるより崇高なる言葉をどんなに乞い求めたことだろう。私は最後の眠りにつく場所をそんな景色の中にしたかった。。。いつの日かそこに横たわり、海からそよいでくる風が私に歌いかけ、懐かしい湾が子守唄で寝かしつけてくれることだろう。」

( 1923年7月21日、『L.M.モンゴメリの日記』より)

The Haunted Wood

お化けの森   

イマジネーション

L. M. モンゴメリは『赤毛のアン』の中で「お化けの森」と呼んだトウヒ林について書いています。「お化けの森」のトレイルは現在、グリーン・ゲイブルズ・ハウスと「恋人の小径」があるグリーン・ゲイブルズ・ヘリテージ・プレイスへとつながっています。

またパークス・カナダはモンゴメリの生涯やゆかりの地、文学的遺産面への理解を深める目的で近代的なマルチメディアセンターを創設しました。

モンゴメリが生涯を通してお気に入りの場所だった「恋人の小径」は、

グリーン・ゲイブルズ・ハウスの裏手にある。

「ダイアナと私は、あの森が呪われていると想像しただけなの。

この辺りはみんな、すごく――すごく、ありきたりだから、私たち遊びで考え出したのよ。

4月から始めたんだけど、「お化けの森」なんてとてもロマンチックでしょ、マリラ?

トウヒ林が薄暗くて不気味だからあそこを選んだの。

ああ、それはもう悲惨な出来事を想像したのよ」

( 『赤毛のアン』第20章より)

「お化けの森トレイル」を抜けると、そこには現在「グリーン・ゲイブルズ」として知られる農家が実在している。この家はかつてL. M. モンゴメリのいとこ、デイビッドとその妹のマーガレット・マクニールの所有だったが、のちに彼らの姪マートル・(マクニール)・ウェッブと夫のアーネスト・ウェッブに受け継がれた。

Green Gables

グリーン・ゲイブルズ 

​発見

多くの人は主人公アン・シャーリーと著者モンゴメリは同一人物だと考えているようですが、架空のアンと実在の著者の人物像はとても違っていて、それはモンゴメリの日記の中に明らかに記されています。しかしながら、モンゴメリは自分自身の経験をいくつも織り込みながら物語を創作していました。たとえば『赤毛のアン』の中では、自分の大好きな実在の場所であるデイビッドとマーガレット・マクニール兄妹のこの農場などをモデルに、さらに想像を加えて描写しています。この物語の主な舞台設定について、モンゴメリは「家そのものよりも、特に周辺の様子や風景を描いており、そのことはここを知っている皆が証明してくれている」と書き残しています。

現在「グリーン・ゲイブルズ」として知られている家は、かつてモンゴメリのいとこ、デイビッドとマーガレット・マクニール兄妹の住居で、のちに彼らの姪マートル ・(マクニール)・ウェブと夫のアーネスト・ウェブに受け継がれた。

「丘の下の方は小さな谷になっており、その向こうのゆるやかな傾斜面にはこじんまりとした農場がぽつぽつと点在しているのが見えた。

その子の視線は熱心に何かを求めているかのように一軒ずつそれぞれの家に向けられ、最後にうんと左手の方にある、道からずっと引っこんだ所の一軒にとどまった。

黄昏の森に囲まれ、花咲く木々によって白くぼんやりと浮かび上がっている。

その上の澄み切った西南の空には、クリスタルのような大きく白い星が、明るい将来へ導く灯りのごとく輝いていた。」

( 『赤毛のアン』第2章より、アンが初めてグリーン・ゲイブルズを目にした時のシーン)

マートル・(マクニール)・ウェブとアーネスト・ウェブはこのグリーン・ゲイブルズで家庭を持ち子供たちを育てた。写真にはここをよく訪れていたモンゴメリの息子たち、チェスターとステュアート・マクドナルドが写っている。1920年頃。

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Cavendish Shore

キャベンディッシュ海岸  

フリーダム

1891年、マルコ・ポーロ号の難破事件を題材にしたモンゴメリの散文が、初めて新聞に掲載されました。当時、世界一速い大型帆船として名を広めていた3本マストのこの木造船は、1883年7月25日にこの海岸近くで座礁したのでした。

家族や友人たちと共に浜辺にでかける以外にも、モンゴメリはたびたび一人でキャベンディッシュ海岸付近の散策を楽しみました。またとても熱心なアマチュア写真家でもあった彼女は、この近辺の写真も数多く撮影しています。

キャベンディッシュの海岸で写真を撮るノラ・レファージー

1904年頃、キャベンディッシュ、PEI。L.M.モンゴメリ撮影

キャベンディッシュ海岸にて、

水着姿のL.M.モンゴメリ(1904年頃)

「カメラとランチバスケットを持って、私たちは何度か海岸で午後を過ごした。着くとすぐに水着に着替え、水遊びやダイビング、写真撮影という海と陸の両方でのひと時を楽しんだ。ある日、波しぶきにひたり、一生忘れられないような泳ぎを経験した。

ものすごく愉快だった。」

( 1904年8月3日、『L.M.モンゴメリの日記』より ノーラ・レファージ―と過ごした時の描写)

L.M. Montgomery Birthplace

L.M.モンゴメリの生家   

ファミリー

L.M. モンゴメリは、1874年11月30日にこの家でヒュー・ジョン・モンゴメリとクレアラ・マクニール・モンゴメリの娘として誕生しました。母クレアラは、結核でその後2年もしないうちに、実家マクニール家で亡くなっています。母親が他界した後も、モンゴメリは母方の祖父母であるアレキサンダーとルーシー・マクニールと共に暮らし続け、そこでの生活が世界的な名作となった『赤毛のアン』をはじめ、数多くの物語や詩を生み出すインスピレーションの源泉となったのでした。

クレアラ・マクニール・モンゴメリ

ポートレート、1870年(17歳)

L.M.モンゴメリの生家、1890年頃。

クリフトン、PEI

「そして、あの角を曲がった所にある、黄色がかった茶色の家。

道路際のその小さな家を、私はいつも心惹かれる想いで見るのだった。父と母が結婚してから暮らし、私が生まれた家、私の人生の最初の一年を過ごした家だったから。年月が過ぎて、一年ごとに時は

小さな茶色の家を少しずつみすぼらしくしていったけれど、私の目にその魅力はあせることはなかった。

あの角を曲がるとき、いつも私は変わらぬ情熱を持ってその家を目で追うのだった。」

( 1898年12月31日、『L.M.モンゴメリの日記』より)

Anne of Green Gables Museum – Silver Bush

アン・オブ・グリーン・ゲイブルズ博物館 ‐ 銀の森   

心のよりどころ

現在、シルバーブッシュと呼ばれるキャンベル家の農場は、L.M. モンゴメリのいとこたちが住んでいた家で、子供の頃から青春時代、そして生涯にわたりモンゴメリが頻繁に訪れた場所でした。

彼女は1911年7月5日、牧師のユーアン・マクドナルドと、この家の客間で結婚式を挙げました。

このキャンベル農場を舞台に、”The Story Girl” (『ストーリーガール』1911年)、”Pat of Silver Bush” (『銀の森のパット』1933年)、”Mistress Pat” (『パットお嬢さん』1935年)といった作品も書いています。

「それはここを愛する人々を、いつも暖かく迎えてくれる忠実な古い家だった。一歩足を踏み入れると、家自体が友達のように感じられるのだ。ここは遠い昔や、過ぎ去った日々の愛しさと懐かしさに満ちている。何世代もの間に、美しさと魅力という、ほのかに違ったそれぞれのものがひとつに織り込まれてきたのだろう。この家ではたくさんのことがあったが、どれとして忘れられたものはない。愛や悲しみ……悲劇、喜劇も。赤ん坊が生まれ、花嫁たちは夢を描き、…さまざまなファッションが来ては去り、その姿を古い鏡に映してきた。家の壁でさえ、笑いをとどめているようだ。 」

(『銀の森のパット』第39章より)

叔父のジョン・キャンベルの家、

1890年代頃。パークコーナー、PEI

The Lake of Shining Waters

輝く湖水 

L.M.モンゴメリは、この池から得た印象やインスピレーションを、小説『赤毛のアン』の中に「輝く湖水」として登場させています。心惹かれる美しい場所に、ロマンチックな名前をつけるのが好きなアンが「バリーの池」を、空想豊かに「輝く湖水」と命名したのでした。

 

「その下の方には池があった。長く曲がりくねっているので、川のように見える池だった。まん中あたりに橋がかかっていて、そこから低いはずれの方には、琥珀色のベルトのように砂丘が伸びて、紺碧の湾との境を描いていた。池の水はさまざまに変化しながらきらめく色合いに満ちていたーーー見たことがないくらい崇高なクロッカス色やバラ色、かすかな緑の色調、さらにとらえどころがなく、名前もつけようもない美妙な色彩が水面を染めていた。

「あれは、バリーの池だよ」マシュウが言った。

「あら、その名前も好きじゃないわ。私なら…そうねぇ…"輝く湖水"と呼ぶわ」」

( 『赤毛のアン』第2章より)

輝く湖水

「輝く湖水は、一般にキャベンディッシュ・ポンドがモデルとされているが、実際はそうではない。

パーク・コーナーにある池が私の頭に描いていたものである。」

( 1911年1月27日、『L.M.モンゴメリの日記』より)

Senator Donald Montgomery House

 / Inn at Ingleside

上院議員ドナルド・モンゴメリの家 / イングルサイド・イン 

追憶

L.M.モンゴメリの父方の祖父で、「ビッグ」の愛称で親しまれたカナダの保守党上院議員だったドナルド・モンゴメリ(1808年1月19日~1893年7月31日)が住んでいた家です。

モンゴメリは深く祖父を敬愛し、一緒に過ごす時間をとても愛しんでいました。

彼女はこの家に新たな想像を加えて「イングルサイド(炉辺荘)」として、アン・シリーズ数冊(『虹の谷のアン』、『炉辺荘のアン』、『アンの娘リラ』など)の中に登場させています。

L.M.モンゴメリの祖父、ドナルド・モンゴメリ、1870年頃

この家は現在、博物館ではなく、イングルサイド・インになっており、

滞在客がおられます。建物や庭の写真はご自由に撮影していただいて

構いません。ただし、滞在客のプライバシーを尊重し、建物内に入ったり、

窓を覗いたりしないようお願いいたします。

「私は子供の頃、祖父モンゴメリの家をたびたび訪れたものである。

当時祖父たちは、風流な古い家に住んでいて、そこへ遊びに行くのは

とても嬉しいことだった。」

 

( 1931年6月2日、『L.M.モンゴメリの日記』より)

The Kensington Train Station

ケンジントン駅   

​旅

ケンジントン駅、PEI、1905年頃。

ケンジントン駅は、カナダの国定史跡になっています。プリンスエドワード島の建築家、チャールズ・チャペルによって設計され、1904年から1905年にかけて地元の建設会社、M.F スキュアマンがプリンスエドワード島鉄道会社のために建設したものです。現存する駅舎は1905年に建てられたものですが、最初の駅舎も同じ所に建っており、まさしくこの場所で若きモンゴメリの人生において、特筆すべき素晴らしい出来事が待っていたのでした。1890年8月11日のことです。彼女は、カナダ西部に住む父、ヒュー・ジョン・モンゴメリを訪ねるため、上院議員である祖父ドナルド・モンゴメリに付き添われて出発するところでした。そしてちょうどその日、汽車の中で、カナダの初代首相ジョン・A・マクドナルド卿と対面することができたのです。7日後、モンゴメリと上院議員の祖父はレジャイナで父親に迎えられ、そこから父親の家のあるサスカチュワン州、プリンス・アルバートに向かったのでした。

モンゴメリのスクラップブックに収められた押し花。

書き残されたメモ:【マクドナルド夫人が私に(”me”が線で消されている)くださったもの。「私の故郷よ、おやすみなさい」。初めての汽車の旅の記念品。皆さん、さようなら!

1890年8月11日、月曜日。】

(提供:Confederation Centre Art Gallery)

「私たちはやっとケンジントン駅に着き、そこであと1時間ほどで到着する「特別列車」のことを聞いた。それには、島を訪ねておられるジョン・マクドナルド卿と令夫人が乗車されているそうだ。上院議員でジョン卿の良き友人でもあるお祖父ちゃんは、ケンジントンに停車してくだされば、私たちも同乗させていただきますと、ハンターリバーに向けてすぐに電報を送った。カナダの首相に会えるかもしれないという期待で、とっても興奮したことを特筆しておこう!これまで汽車に乗ったことがなかったけれど、この初めての経験はすこぶる楽しいものだった。」

( 1890年8月11日、『L.M.モンゴメリの日記』より)

The Bideford Parsonage Museum

ビディファド・パーソネージ(牧師館)博物館  

結びつき

1894年7月28日、シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジを卒業した19歳のモンゴメリは、新来者としてビディファド校の教師の職に就き、地元のメソジスト教会のエステー牧師とその家族が住む牧師館で下宿生活を始めました。同校の跡地は、今では記念公園に姿を変え、コミュニティや訪れる人々がピクニックを楽しむ場となっています。

ビディファドでの一年と、その後ノバスコシア州ハリファックスにあるダルハウジー大学で文学を学んだ一年ののち、プリンスエドワード島に戻ったモンゴメリは、島の西部にあるベルモント校で教職についています。

ビディファドにある

牧師館の記録写真、PEI。

「エステー牧師はメソジスト派の牧師で、家族は、彼とその奥様、

そしてモードという名の小さな女の子。モードは7歳になるかわいらしい女の子で、

私の生徒の一人である。この牧師館は、学校まで半マイル(800mほど)の場所にあり、素敵な庭のある住み心地の良い家だ。」

( 1894年7月30日、『L.M.モンゴメリの日記』より)

モンゴメリとベルモント校の生徒たち。1897年頃。

ビディファド校で初めて教鞭をとってから2年ののち、モンゴメリはベルモント校で教師を勤めた。

The Sir Andrew Macphail Homestead

アンドリュー・マクフェイル卿の農場  

賞賛

1910年9月、カナダ総督のグレイ伯爵はプリンスエドワード島へ立ち寄ることをご所望されました。目的は当時、出版され、総督がすっかり心を奪われた『赤毛のアン』の著者、L.M.モンゴメリに会うためです。この会合は、優れた学者であり、作家でもあるアンドリュー・マクフェイル博士の屋敷で行われることになりました。ここオーウェルは、博士の子供時代の家であると共に、その後も彼が夏を過ごす場でもあったのです。昼食会の間、アール・グレイ総督とモンゴメリは、彼女の作品の話をするために散歩に出て、マクフェイル家のアウトハウス(屋外にあるお手洗い)の階段に腰かけて「心の通い合う会話」をしたのでした。モンゴメリは笑いをこらえるのに必死でしたが、アール・グレイ総督はそこがどういう場所なのかは全く気がついておられなかったのです。

アンドリュー・マクフェイル博士の屋敷、オーウェル、PEI。

シャーロットタウン・ガーディアン紙の記事:

カナダ総督のグレイ伯爵のプリンスエドワード島来訪と、アンドリュー・マクフェイル博士の邸宅訪問に、"ミス・モンゴメリ"がゲストとして招かれていたことを報じている。

「私は笑いをこらえるのにあまりもひどく苦労していたので、自分が何を話しているのかわからなかった。グレイ伯爵は私があがっているのだと思い、彼との面会にかなりうろたえているのでは、と尋ねられた。「とても怖気づいていました」と答えると彼は笑って「もう大丈夫でしょう?」とおっしゃった。「はい」と答えたものの、あともう少し長くそこに座っていたら、私はヒステリーを起こしていたかもしれないし、どうしてかなど、到底説明できるものではなかった。私たちの後ろで、お手洗いを使いたくても家から出られないでいるとても気の毒な人が心配でならなかった。」

(1910年9月11日、『L.M.モンゴメリの日記』より)

The Confederation Centre of the Arts

コンフェデレーション・センター・オブ・ジ・アーツ 

創造性

今も変わらぬ人気を保ち続けるモンゴメリの作品から生み出された催し物の一つにミュージカル “Anne of Green Gables( 邦訳名『赤毛のアン』)”があります。コンフェデレーション・オブ・ジ・アーツとシャーロットタウン・フェスティバルが主催するこのミュージカルは、1965年に初めて上演されて以来、今では毎年劇場で上演されるミュージカルとしては、世界で一番長く続いている作品として認定されています。カナダ国内ツアーは3回行われ、1970年の大阪万博ではカナダを代表する作品として上演されました。またロンドンのウェストエンドでも上演され、 1969年、演劇批評家協会で最優秀新ミュージカル賞を受賞しています。さらに1972年にはニューヨーク・シティ・センターにてオフ・ブロードウェイとして上演されました。

コンフェデレーション・センターのアート・ギャラリーには、”Anne of Green Gables (『赤毛のアン』)”ほか、モンゴメリのオリジナル手書き原稿15冊を含む常設コレクションがあり、さらにモンゴメリのスクラップブックや、ウェデイングドレスとウェディングシューズといったゆかりの品々も保存、管理されています。

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1967年のシャーロットタウン・フェスティバルで上演された”Anne of Green Gables (『赤毛のアン』)”より、アン・シャーリー役のジェイミー・レイとダイアナ・バリー役のスーザン・アンダーソン演じるいちご水のシーン(写真:ジョージ・ウォットン)。

ルーシー・モード・モンゴメリの”Anne of Green Gables"(『赤毛のアン』)の手書き原稿(22x16.4x5.3㎝の紙にインク)1905年。(本の出版は1908年)1967年にコンフェデレーション・センタ-オブ・ジ・アーツが取得、収蔵 

(CM 67.5.1.)

「アン、アン、小さな赤毛のいたずらっ子さん、

あなたはいろんなことを引き起こしてくれるのね」

(1910年11月29日、『L.M.モンゴメリの日記』より。マサチューセッツ州ボストンの出版社、L.C.ページを訪ねたあとの記述。そこで彼女はセレブのような歓待を受けた。)

Robertson Library

and the L.M. Montgomery Institute at UPEI 

プリンスエドワード島大学(UPEI) のロバートソン図書館とL.M.モンゴメリ研究所

遺産

1993年、プリンスエドワード島大学(UPEI) に広く称賛された作家、L.M.モンゴメリとその作品のより深い研究を目的にL.M.モンゴメリ研究所(LMMI) が設立されました。同研究所は、長期間かけて収集されたどこよりも大規模で最も重要な、モンゴメリの遺産である資料(出版物や工芸品、その他モンゴメリとその生涯に関する品々)を所蔵しています。セキュリティおよび保存、アクセス上の理由から、これらのコレクションはUPEIのロバートソン図書館に保管されています。同図書館の長期に渡る収集活動の中で、特にプリンスエドワード島の研究コレクションは、LMMIの資料を支え、充実させています。モンゴメリは1893年から1894年までプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジ(PWC)で学びました。同カレッジは、1969年、セント・ダンスタンス大学と合併し、現在のプリンスエドワード島大学となりました。モンゴメリが通っていた当時のPWCは、シャーロットタウンのダウンタウン、ウェイマス・ストリートにありました。そこは現在ホーランドカレッジが建っている場所です。ホーランド・カレッジは1969年、モンゴメリが通っていたPWCが新しくプリンスエドワード島大学の一部になった時に設立されました。

「プリンス・オブ・ウェールズ・カレッジに通っていた頃は、世界のどこにも自動車は走っておらず、アメリカには交通警官さえいなかった。

ダリアス・グリーン以外に空を飛んだ人もいなかった。無線もない。ラジオもない。映画もない。レントゲンもない。ボブヘアもない。チャールストンのダンスもない。ジャズもない。ロイド・ジョージもいない。左翼もいない。米西戦争やボーア戦争もまだずっと先のことだったし、1914年の「血なまぐさい結末」(第一次世界大戦)の種さえまかれていない、平和な世の中だった。」

モンゴメリの回想エッセイ、プリンス・オブ・ウェールズ・カレッジ在学時代の追憶記 ”The Day Before Yesterday"より(1927年5月号の”The College Times Vol. 3, no.3- 29- 34ページに掲載) 

ロバートソン図書館にあるL.M.モンゴメリのブロンズ像。クロード・ルーセル作。エドマンズトン、ニューブランズウィック州、カナダ。

写真:マイク・ニーダム、UPEI

インスピレーションに満ちたL.M.モンゴメリの文学ツアーは、リゾート共同体(スタンレー・ブリッジ、ホープリバー、ベイビュー、キャベンディッシュ、ノース・ラスティコ)、プリンスエドワード島州政府、カナダ政府、キャベンディッシュ・ビーチ観光協会、セントラル・コースタル観光協会、その他、多くの熱意あふれるパートナーとの協賛により創作されました。

「L.M.モンゴメリの署名及び猫のデザイン」およびL.M.モンゴメリ、『可愛いエミリー(Emily of New Moon)』、『青い城(The Blue Castle)』、その他の名称や画像はL.M.モンゴメリが創作したものであり、Heirs of L.M.Montgomery Inc. の商標です。ご使用の際には許可が必要です。全著作権は保護されています。

赤毛のアン(Anne of Green Gables)』及びその他のアンに関するものは商標であり、Heirs of L.M.Montgomery Inc.およびプリンスエドワード島州が所有するAnne of Green Gables Licensing Authority Inc. のカナダの公式マークです。ご使用の際には許可が必要です。全著作権は保護されています。

 

本/日記の画像提供:L.M.モンゴメリ研究所

写真提供:L.M.モンゴメリ・コレクション、アーカイブ及び特別コレクション、ゲルフ大学図書館。XZ1 MS A097

ロバートソン図書館にあるL.M.モンゴメリのブロンズ像(写真:マイク・ニーダム、UPEI Photography)、制作者 クロード・ルーセル(エドマンズトン、ニューブランズウィック州、カナダ)